友「最近、なろう小説のレビュー動画を見るのが好きなんだけどさ」
僕「時間を溝に捨てる行為では??」
友「その中にすごい腑に落ちた言葉があってね」
僕「どういった?」
友「『お前が異世界転生したことで、誰も救えてないじゃないか。人を不幸にしただけじゃないか』って」
僕「ほう」
友「いや本当そうだわって、すごい共感してさ。クソ作品ってほんとそうなの」
僕「そのクソ作品を僕は読まんから、具体例は存じ上げないがね」
友「うん」
僕「その評価文には、大別すると二つの要素を含まれているんだが、分かるか?」
友「そうなの?」
①「達成感」の亡失
読了後の後味というのは、物語に於いて極めて重要な成分です。
楽しい要素が一切なくても、読了後に胸にずーんと来る感情があればそれは良作ですし、もちろん「楽しかったー!」となってもそれは良作。
この後味の要素の一つに「達成感」というものがあります。
僕はゲームシナリオ畑の人間なのでゲームに寄った話になりますが、特にゲームにはこの要素が強い。
この「達成感」というものは、当然ながらゲームの場合は「攻略」によって得られる部分が大きいです。
高難易度を売りにしたゲームなんてまさにそうで、例えば近年話題のUndertaleなんかは、表シナリオの余韻をぶち壊す残酷な裏ルートが用意されています。が、これを人がプレイするのは、最高のエンディングを迎えるより更に高い攻略難易度のせいでしょう。
一方で、この「達成感」。これはシナリオによって得ることもできます。
むしろRPGを作る際、万人に向けた作品を作ろうと思えば難易度なんてそう高くできないものですから、シナリオの方で、攻略で得られない充足を補填するのです。
で、この「達成感」というもの。具体的にどうやってシナリオで得させることができるのか。
端的に言えば、「プレイヤーが救いたいと思ったものを救える」ことです。
本来は救われずに終わるはずだったものが、プレイヤーの介入によって救われる。
この「達成感」こそ、RPGで用意すべき要素です。
逆に言えば、プレイヤーが救いたいと思うものが救えないことがあってはいけません。
また、プレイヤー(主人公)の介入なしで勝手に救われるものでは「達成感」は得られません。
で、なろう小説の話に戻りますが、小説の場合でも同様のことが言えます。
例えば、少し前にアニメ化された悪役令嬢ものの先駆け「はめふら」の場合、主人公が悪役令嬢に転生したことによって、本来の乙女ゲームのシナリオで起きるはずだった不幸を防ぎ、主要な登場人物全てを救ったと言っても過言ではないでしょう。
主人公の存在・行動によって、周りが幸せになる作品というのは、それだけで読者に充足感を与えることができ、良作になりうるのです。
逆に言えば、主人公が周りを幸せにできない作品は、できる作品に対してアドを譲っているわけです。
即ちクソとまではなりませんが、それ以外の要素で巻き返せなければ、クソになります。
②「善悪」の履き違え
僕が創作のみならず、人生に於いて肝に銘じている言葉があります。
『お前の快・不快を善悪に履き違えるな』
勧善懲悪というのはいつの世も人に肯定される概念ですが、果たして「悪」とは何なのか。
結論から言えば、悪とは「ルール違反」「違法行為」です。
社会(集団)の運営に於いて害となる思想・行為。一般的に法で裁かれるべき行為。
決して、悪は普遍的なものでなく、倫理や道徳で語り尽くせる概念でもないのです。
例えば、現代の感覚では強盗殺人なんかは重罪です。報いを受けるべき悪行です。
では、戦時中、敵兵士を殺して装備を奪う行為は果たして「悪」でしょうか。行為としては強盗殺人と何ら変わりありません。
しかしこの行為を悪と断じることはできないでしょう。「善」とも言えませんが。その時代、その立場の者が行う「べき」行為です。
ですので、「善」というのは確かに道徳・倫理的な概念なのですが、「悪」の定義は時と場所によって変動し、その基準はその場所の「法」なのです※。
これを履き違えている人間に、まともな物語など書けるはずがない。
友曰く、恋愛系なろうでよくあるパターンが、
・恋人をNTRれて絶望する → ・新しい恋人とNTRした相手を破滅させる → m9(^Д^)ザマァwwwwww
だそうで、これが結構な評価を得るところまで受け入れがたいと言っていました。
では、なぜこれに好感を持つ者とクソだと思う者がいるのか。
まず、NTRは「悪」かという点を論じましょう。まぁNTRの方法にもよるのですが、一般的にNTRは違法行為ではないです。つまり悪ではないです。
しかし、NTRという行為に激しい「不快感」を得る人は多くいます。
で、自分にとって「不快」な相手が破滅することで、快感を得られる人というのも、結構な割合で存在します。
まぁそういうことですね。
彼らは「悪」ではなく「不快」を理由に陥れられるのです。
が、己の「不快」を普遍的な「悪」と履き違えてしまっている残念極まりない頭の人間が、世の中には結構な割合で存在します。
SNSを炎上とかさせる輩はだいたいそうです。
「こいつは悪人だから叩いて良い。人生を破滅させて良い」
と思い込んで滅茶苦茶なことを書きますが、その対象が本当に「悪」であったことは殆どないです。
だいたいは自分にとって「不快」な人間を「悪」人だと履き違えています。
で、この「不快」が書き手と一致し、かつ「不快」を「悪」と履き違えてしまっている場合。
彼らはNTR断罪を勧善懲悪と感じ、評価するわけですね。
一方で「不快」と「悪」が分別できている人や、書き手と「不快」の感覚が一致しない人は、このNTR断罪は「理不尽」だと感じてしまい、クソだと思うという。
もちろん、「不快」と「悪」分別できた上でNTR断罪――というかNTRへの復讐ですね。断罪ではなく復讐として書けたのなら、クソ度は大きく下がると思います。
※
この例外となるのが「悪政」など「法」自体が「悪」となる場合です。
というのも、「法」というのは社会の円滑な運営、現代では大多数の人の幸福のためにあるものなので、これを損なうルールや政治であるならば、それは「悪政」「悪法」となってしまいます。
友「あー。納得した。納得できた」
僕「これを踏まえてTOZの話をしようか」
友「あーーーエドナちゃんのためにアイゼン救わせろーーーアリーシャも全然救えてないしなんなら一人で立ち直れちゃうやつーーーー」(膝をつく)