どもです。
先日、友人と喋っていた内容が割と忘れ難かったので文字にしておこうと思いました。
僕が初めて泣いた小説は、魔界戦記 ディスガイア―魔界で転生。歳がバレますね。
SRPGの大手、ディスガイア一作目のノベルですが、リンク先のアマゾンでの評価が微妙であるように、あまり評判の良い作品ではありません。
というのもこの小説、今の言葉で言うならば「モブ主人公」の物語だからです。
ゲームのノベルなのに、ゲームの主人公やヒロインが殆ど出てこない異端の作品は、多くの人に受け入れられるものではありませんでした。
が、僕はこの作品で、人生初めての「物語を呼んでガチ泣き」をしました。
次にガチ泣きしたのは何だったかなー、と記憶を辿ると、多分、椿山課長の七日間だったと思います。
こっちは映画化もされた名作小説です。
で、小説ではありませんが、近年ガチ泣きしたのは、テイルズオブエクシリア2。
これはヤバかった。最後の方はこのままだとティッシュ箱が空になると判断してタオル引っ張ってくるくらいには泣けました。
この作品はコアなファンも多く、一部ではTOシリーズ最高傑作とも言われています。
が、さんざん泣かされといてアレですが、X2は良作であることは確実だと思いますが、最高傑作とは言いたくないのです。
僕が一番好きなテイルズは、タイでVとD2です。
D2は泣きましたがX2ほど泣かされていないですし、Vに至っては本編中では一度も涙腺を刺激されませんでしたが、それでもこっちのが僕としては傑作だと思うわけです。
ちなみにD2は夢の世界(特にカイルとロニのターン)で、Vは外伝小説の虚空の仮面で泣きました。
前置きが長くなりましたが、今回の主題はタイトルの通り。
死の悲しみを描く物語に比べ、生の喜びを描く物語は涙になりにくく、しかしとても尊いものだということです。
→↓↑の法則
そもそも、物語においても現実においても、生理的なものを除いて涙には2種類あると思います。
ひとつは、「悲しみ」「怒り」「悔しさ」などの、所謂「負の感情」が堪えきれなくなって溢れるもの。
もうひとつは、言語で形容しにくい、とにかく感情が溢れ出す感じのもの。客観的な言葉で表すなら「感動」という奴です。
X2の涙は前者で、あのゲームの世界観は一言で表すなら「理不尽」。
他の全てを犠牲にしてやっと、ただ唯一を守れる世界でした。
僕は泣きながら「ざけんな」とか「畜生」とかゲームのキャラクターを詰ってました(笑)。
じゃぁD2...はちょっと昔過ぎて朧げなのでVの思い出を辿ると、虚空の仮面の下巻の中盤、それまで淡々と進んできた物語に唐突に強い感情の揺さぶりが訪れ、僕はそれに同調する感じで読み進めていました。
で、最後の「俺だ。」のところで決壊。何がなんだかわからないままに決壊。
悲しいわけでなく、嬉しいとも違い、苦しいのは確かで、でも読了後の後味は意外とスッキリ。
この小説買って良かったと思いましたし、一気にVが好きになりました。
X2との違いは何かと考えると、主役(読み手)の感情の指向性ではないかなーと。
X2は図にするなら、こういう感じです。
雑ですが。
中~終盤から怒涛の追い打ち連打。なんかもう救いのない感じ。
対してV(小説)はこんな感じです。
最後はハッピーエンドです。
色々あったけどなんだかんだ幸せだった世界が一瞬で塗りつぶされ、なだらかに下降線。
更に追い打ちをかけられますが、最後は自分の描いてきた軌跡に持ち上げられ、掬い上げられる感じです。
結局、読み手に「良い涙」を与える作品は、「救い」によって涙を与えるものだと思うわけです。
で、「救い」に遭った人というのは「生きてて良かった」「諦めなくて良かった」という気持ちを抱くことが多くて。
それこそが生の涙であり、生の喜びだと僕は思います。
「救い」で涙を生むために ①思い込みと逆の真実
「救い」で涙を生じさせるのは難しいと思いますが、その方法について考察してみます。
「魔界で転生」の主人公は、家庭内の不和、しかも自分だけが仲が悪い、愛されていない、認められていないと思い悩んでおり、そのために「親より先に死んだ親不孝」こそが罪だと言われても納得できませんでした。
色々あってラストシーン、転生の間際に一度だけ現世を見れるということで、主人公はある意味初めて家族と向き合ったわけですが、そこで愛されていないと思っていた父の不器用な愛情や、蔑まれていると思っていた弟に慕われていた現実を知ることになります。
最後に「救い」を与えられた主人公は新たな生へ向かう、というハッピーエンドでした。
人格形成に影を落とす「思い込み」を持つキャラクターは多いですが、その「思い込み」が真実とは異なっている場合というのも多々有ります。
この「種明かし」をどのようなタイミングで行うかによって、そのシーンは感動にも絶望にも置き換わります。
「魔界で転生」の主人公は苦難を乗り越え、前向きな気持ちになれたタイミングでの「種明かし」でした。
このタイミングでの「種明かし」だからこそ、素直に真実を受け止め、心の壁を剥がしてふわりと浮き上がることができるのだと思います。
一方、こういった「種明かし」は、対象キャラクターの心が落ちているときに行えば「救い」とは逆方向に動きます。
「実は愛されていたんだ!」→「そんなことにも気づけず周りに当たっていた自分は屑だ!」みたいな感じですね。
「救い」で涙を生むために ②「報われた」
絶対絶望の縁で突如として現れた見ず知らずのヒーローに救われても、それは殆どの場合、心理的な「救い」にはなりえませんし、感動も生みません。
そういった「奇跡」は「ご都合主義」として受け止められることも多く、むしろヒーローに心救われたのなら、それは奇跡から始まる物語の導入の方が相応しいのではないでしょうか。
「虚空の仮面」で主人公を救ったのが、偽りの立場でも仲間であった者たちであったり、気まぐれにした指導で力をつけてくれた部下だったりしたように、情けは人の為ならずではないですが、自分がしたことというのは良くも悪くも巡り巡って自分に返ってくるもの。
そして、それこそが「ご都合主義」ではなく「予定調和」になるのだと思います。
「椿山課長の七日間」でも、最後に主人公を救ったのは、その背を見続けていた息子でした。
人生(半生)の苦労や涙や喜びが、崖っぷちで人を救う瞬間、風が吹けば桶屋が儲かるくらいに婉曲した道のりでも、最初のドミノを押したのは自分自身。
そういった奇跡は人の心に「報われた」という思いを呼び起こし、「救い」の後押しをする存在となりえます。
結論 下げて上げろ!
ありきたりな結論ですが、
葛藤や苦心の中で種を蒔き、
起承転結の転で突き落とし、
拾い上げると同時に撒いた種が一気に花開く!
物語を描く上で基本に忠実な動作ですが、基本に忠実は何気に難しい。
しかし自分もこの尊い涙を生み出せるよう、努力せねばと思うわけです。