どもです。
ファンタジーでは割と軽率に数百歳・数千歳の存在が登場します。
しかし、軽率な超長寿のキャラクターは、物語の陳腐化を招きます。
超寿のキャラクターが陳腐なのではなく、超寿のキャラクターに「倦み」というリアリティが欠けてしまうことが陳腐なのです。
超寿の倦み
僕にとっての超長寿を扱った作品の原点は、BlackBloodBrothersです。
この作品では数百・あるいは4桁の年月を生きた吸血鬼たちが登場するのですが、彼らは例外なく人間の精神としては破綻しています。
基本的に社会の動きや個々の人間に興味を持たず、ある者はただ怠惰に時が過ぎるのを眺め、ある者は欲や他者との関わりを断って隠遁し、ある者は精神の健全さを保つために自己の肉体を捨て定期的に若い体に乗り移る、といった具合で。
また、この倦みを上手く描いたな、と思うのが、ソーシャル(ブラウザ)ゲーム刀剣乱舞のキャラクター、鶴丸国永です。
彼は当ゲームの中でも最長老にあたる一人ですが、他の同年代のキャラクターが超然とした人物像なのに対し、地に足がついており、また溌剌とした人物です。
そんな彼の信条が「人生には驚きが必要なのさ。でなけりゃ先に心が死んでいく」。彼の振る舞いは、その信条が自身の経験則であることを示しています。まるで人のように生きられる今の生活の新鮮さ・驚きが、彼の息を吹き返させたのだと感じられます。
そう、超寿命のキャラクターを上手く書いた作品では、彼らは総じて己の生に対する諦め、飽き、倦みを抱えており、それは次第に無感情、無気力を生み、心が死んでいくようです。
現実の人間だって10年も同じ仕事をしていれば人生に飽きてきます。結婚や子育て、仕事の変化、あるいは新しい趣味などの新規イベントを見つけて人生を充実させていくのです。
しかし100年1,000年となればどんな人生のイベントも一通り経験しつくして、これ以上のDLCがありません。
もう全てが面倒くさくなるのも当然ですね。
逆に言えば、数百歳・数千歳という設定にも関わらず、普通の人間の範疇に収まる精神の持ち主というのは、リアリティに欠如しています。
勿論、例えば数百年を置物のように生きていて唐突に開放された、とかいう設定なら実質人間一年生みたいなものですから若い精神性を持っていても不思議ではありませんが、人間の精神のまま現実離れした時間を生きるというのは、通常は無理があるのです。
そのキャラクターは「過去を持つ」か
とはいえ、これは「人間の精神」の持ち主に限定した話です。
極端な話、樹齢1,000年の樹木が生に倦んでいるかと問われれば、たぶんそれはないでしょう。
一部の水生生物には寿命の概念が存在しませんが、彼らは長寿を理由に無気力になったりしません。
では、それらの生物と「人間の精神」の違いは何でしょうか?
知性の有無、と言われれば尤もですが、ならば知性の何が長寿を倦ませるのでしょう?
Fate/GrandOrder第7異聞帯にて登場したディノスという霊長は、数百数千年を健全に生きられる生物でした。
彼らは生まれながらにして高度で超寿命の生物だったのですが、その文化は年号を数えず、過去を記録・記憶しないという人間離れしたものでした。
一方、やむを得ぬ事情で不死性を得てしまった第7異聞帯唯一の「人間」は、その長すぎる生に気が狂ってしまった。
故に彼は全てを忘却することで精神を保ち、思い出すことで人生を終えました。彼は、くしくも、おそらく偶然に、ディノスたちと同じく過去を持たない生き方を選んでいたのでした。
これらからイメージできるのは、超寿命に耐える精神は「過去を持たないこと」が条件だということです。
先に刀剣乱舞を例に挙げましたが、鶴丸を除いた平安時代生まれの(実在する刀の)男士、特に初期の方に実装された鶯丸や髭切には、過去に頓着しない傾向が強くあります。
人は、過去の累積が多ければ多いほど、新しい刺激がなくなります。
それは冷静に対応できる物事が増えるという良い面もありますが、刺激がなくなれば人は喜びも怒りも薄れ、無になっていく。
そうして、心が死んでいくのでしょう。
老人の成長
では、まだ心が死ぬには至らない程度の長寿について。
一般的に多くの経験を積み重ねた老人は、経験の浅く青臭い主人公らと比較すると、深謀遠慮であり、間違いを犯すことはそうありません。
しかし、成長の余地がないキャラクターというのは、話の中心には据えづらいものです。
だからこそ物語の主人公には往々にして未だ青臭い人間を選ぶのですが。
とはいえ、老人のキャラクターというものは成長しないのか、といえば、実はそうではないのです。
この典型的な例といえるのが、FEトラキア776のアウグストという老人なのでした。
彼は作中で若い主人公を叱り諭す立場にいますが、騎士を毛嫌いする偏った思考の持ち主でもありました。
理由は名言されませんが、彼はとても合理的な人物であり、どうやら戦争そのものや騎士の不合理な忠義心が嫌いなようで、その思考自体は理に適ったものです。
しかし、彼の理に適った「騎士嫌い」は次第に角が取れていきます。
それは少なからず絆を感じていた同僚の騎士に後を託されたからであり、若い主君の成長に心奮えたからであったのでしょう。騎士嫌いの老人はいつしか、友の騎士道を肯定し、自らもまた一人の騎士になっていました。
このアウグストという老人は、挫折や困難ではなく、友や主君の影響によってポジティブな変化を迎えました。
誰かの、特に自身よりエネルギーのある「若い誰かの」影響を受けることで、凝り固まった人生の堆積物に新しい風を通すことができるのでしょう。
刀剣乱舞の例でいくと、やはり大侵攻エピソードの三日月宗近が分かり易いですね。
舞台などで展開された話を踏まえると、三日月というキャラクターには黙って勝手に負担を背負い込む悪癖があります。
大侵攻の折、彼には自分と引き換えにすれば、自分の力で危機を突破できるという自負があった。しかし若い、始まりの一振がそれを拒否するのです。お前だけで解決しようとするなと、仲間を認めて頼れと。強引に三日月を連れ戻した始まりの一振は、仲間とともに犠牲を出さずに事態を解決させました。それは三日月の孤独に凝り固まった価値観に、風穴を開けるに等しい出来事だったのでしょう。そうして三日月は仲間や主に一歩引いていた己を正し、「本丸」の一員になったのです。